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【23rd】今を学ぶ:ヒトの本質を問いただすのはコロナか、それともヒトか?

こんにちは。石井亮です!

最近、またコロナが第三波だ~とか、なかなか騒がしくなってきましたね。

 

ということで、今日はたらたら~とコロナについて考えてみよう。

 

しっかり周囲のことを考えて行動することは大事である。

ただし、僕の自論、結局「自分の身は自分で守る」が最強であり最善である。なぜなら、一つ一つの自分の行動はすべて管理下にあるからだ。

 

1億2千万人、全員がコロナ対策を100%実施するなんてことは至難の業である。

なぜなら、まだ人類が直面したことのない危機だからだ。こんなことをいえば「シン・ゴジラ」が見事に揶揄した日本人のことを指しているようで、少しばつが悪いところもあるが、これは否めない事実だ。

往々にして、前例のないことに対して人類は弱い。それは歴史をみればわかる。考える葦である人間の「教訓」という名の武器を使用することができないし、特に様々な予測不能要素を持ち合わせている今回のコロナ様に対して、これからの未来のことなんて誰一人正確な予測はできないと僕は思っている。

 

コロナ対策、というと聞こえは医療的であるが、政治という要素が絡み合うので奥が深い。100%実施しようとすると、経済的にも倫理的にも様々な側面から綻びが見えてきて、それを遵守しないほうが自分の為になる、という人も出てくるのは当然だ。しかし、これは国家の主義形態や法制度云々の前に、ヒトの本質がそこにある、と僕は思うのだ。

 

社会全体のために動いたところで自分が損する、という場合、多くの人は、自分が得するように舵を切ると僕は思う。そんなの非道徳的だ!なんて言われそうだが、別にそうでもない。

 

船が沈没しそうになっているときに、「船をなんとか直すぞ!」という人と「なんとか助かるために海に飛び込もう!」と考える人の割合を考えてみる。明らかに後者の圧勝である。特に緊急かつ重要という第1領域であればなおさらだ。

 

しかし、これが"罪と罰"的な、人間の抗うことのできない性なのだろうか。

人間は悪い生き物なのだろうか。非道徳的なのだろうか。

 

そうではないだろう。

 

仮に、全員が船から飛び降りなければ、全員死んでしまう。

これがマクロで起きると、いったい何が起きるか?

ヒトという生命が途絶えるのだ。

逆説的に言うと、そういう生命は厳しい自然淘汰の世界でとっくに全滅しているのだ。

 

少々道徳的価値観を度外視しよう。生命進化学的にいえば、ヒトが生きる意味は「子孫を残す」こと以外に何もない。そのために、子孫をつくって育てるだけの体力と知恵が脈々と僕たちには受け継がれているわけだ。

 

ということは、「ヒトは自分の為に生きる」ということ自体がある意味普遍的な事実であるように僕は思うのだ。これはクリストファー・ノーランの映画「インターステラー」や「テネット」でも問われている「自分の為か、地球人類の為か」という永遠の哲学的テーマであろう。僕はこんなことを壮大なSF構想と壮絶なるビジュアルで考えさせるノーラン監督を心から尊敬する。僕もそんな映画を創ってみたいものだ。SF映画を単なる空想として観る時代はとうに終わっている――と、映画の話は尽きないのでまたにするとして。

 

 

何が言いたいかというと、ヒトが自分自身が得するように生きることは何も悪いことではなく、むしろそのようにプログラムされているからこそ今の僕らがここにいる、といった方が適切だ。僕の主観ではなく、生物学的かつ歴史的に、だ。子孫を残そうとする動き自体が非道徳的だという意見があるのだとすれば、それはそれで受容するが大半の人はそうは思わないはずだ。尊き生命を授かったとして、その赤子とどこかの知らない赤子どっちかしか助からないと言われたら、本能的に自らの赤子を助けるだろう。それを非道徳的と定義するのであれば、それまでだが、であるならば歴史を塗り替えす道徳革命がヒトの未来に起きるのかと聞いてみたいところだ。

 

とすれば、このコロナ禍でできることは、「電車で咳をするなよ!」とか「お前飲み会やめろよ!」というのではなく、「じゃおれタクシーのるわ」とか「おれは2,3年分の備蓄を買って引きこもるわ」といった主張の方が、本当にコロナから逃れたいのであれば正しい選択といえないだろうか。しかも、それは自分の行動の管理下にあるので、すぐにでもできるはずだ。

 

繰り返すが、しかし、これを全員が100%やるというのは土台不可能な話なのだ。

 

電車に人が乗らなくなって全員がタクシーに乗っていけば、もしかしたら今よりは安全かもしれない。しかし、では鉄道会社は軒並みつぶれてしまうかもしれない。誰が補填するのだろうか?ここに充てる金があったら国民に渡せ!なんていう輩が出ないとも思えない。

 

飲みや飲み会を100%なしにして、全員がずっと家に引きこもった場合、飲食店は経営危機に襲われる。これは誰が助けるのだろうか?当然、飲食店オーナーにも養うべき家族がいる。

 

一切の娯楽が禁止になった時、人々は不満をどこにぶつけるだろうか?

自らの家族?会社?国?その不満の矛先を抑える仕事は誰がやるのか。

 

こういった規制へのアクションを取ったところで、全員が国に従うだろうか?

むしろ一時の米国のようにストライキになれば、治安的にもコロナ感染的にも逆効果だ。

 

政治家たちの気苦労は計り知れない。

「国を治める」というのは実に難しい仕事だ。

 

なので、僕らはその政治家にああだこうだ文句を言っていても仕方がない。なにしろ、その政治家を選んだのは僕らなのだ。こういった危機で政治を変えてほしいというのは、不自由な発想であり、そもそもその思考を変えなさいという話である。前例のない危機に対しては、予測が難しい。予測が難しい局面においては、人々は不安に駆られるので、自らの予測を信じたり疑ったりする。なので、結論、100%全員が国の指針を100%守る、なんてことはヒトという本質を踏まえれば絵空事に近しい思想だ。

今は、世界中の頭脳を繋げて試行錯誤しながら抜本的な対策を絞り出すのを待つしかない。その間、自分の行動の管理下にあることをまずはやる。それは、ヒトによってはマスクであり消毒であろうか。また、ヒトによっては恐怖からの逃避であり、ヒトによっては未来への投資の時間にもなろう。これは、「本質」云々の話ではなく「考え方」「生き方」というプラスアルファによる選択であり、今後を大きく変えることになる。それが真の、自由な発想だ。

 

というわけで、結論、「自分の身は自分で守る」が一番の最善策なのだと、僕は思う。

 

 

今日はちょっと固い内容になりましたがここで(^^)

 

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